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シャルル2世 (西フランク王) : ウィキペディア日本語版
シャルル2世 (西フランク王)[しゃるる2せい]

シャルル2世(, 823年6月13日 - 877年10月6日)は、カロリング朝西フランク王国の初代国王(在位:843年 - 877年)である。後にカール2世()として西ローマ皇帝を兼ねた(在位:875年 - 877年)。禿頭王(le Chauve, der Kahle)と呼ばれる。
ルートヴィヒ1世(ルイ敬虔王)と2番目の妃ユーディトの子で、ロタール1世アキテーヌ王ピピン1世フランク王ルートヴィヒ2世の異母弟に当たる〔柴田他、p.164〕。
== 生涯 ==
823年6月13日、フランクフルト・アム・マインに生まれた。840年にルートヴィヒ1世が没すると、フランク王国ではロタール1世、ルートヴィヒ2世、そしてシャルル2世の3兄弟による領土をめぐっての争いが起こった。まず842年、ルートヴィヒ2世との間で対ロタール1世のストラスブールの誓いにより同盟を組んだ。翌843年に3兄弟は王国の領土をそれぞれ分割することで統治することとなった。ロタール1世はフランク王国中部と西ローマ皇位、ルートヴィヒ2世は東フランク王国、そしてシャルル2世は西フランク王国という具合である。これがヴェルダン条約である。しかし、国内の貴族勢力の統制に苦しみ、さらにノルマン人ヴァイキングの侵攻に苦しめられて、その治世は多難を極めた。
そして869年、兄のロタール1世(ロタール1世は855年に死去)の子のロタール2世が死去すると、シャルル2世は同年9月9日メッツのステファヌス教会でロタリンギア王として戴冠された〔成瀬他、p.90〕〔瀬原、p.50〕。しかし、その翌年、東フランク王ルートヴィヒ2世がロタリンギアに対する相続権を主張したため、シャルル2世は東フランク王ルートヴィヒ2世と再び領土交渉を行ない、870年にロタリンギアを中心とした兄の遺領を分割し、ロートリンゲン西部とプロヴァンスを獲得した。兄の遺児でロタール2世の後を継いだルートヴィヒ2世(ルイ2世)には、イタリアの領有と西ローマ皇位のみを認めている。これを、メルセン条約という。こうしてここに、現在のフランス、イタリア、ドイツのもとが作られたのである。そして875年、西ローマ皇帝ルートヴィヒ2世が死ぬとすかさずイタリアに侵攻して同地を併合し、教皇ヨハネス8世の支持を得て、同年クリスマスの日に西ローマ皇帝カール2世として戴冠を受けた〔成瀬他、p.91〕。
876年、兄の東フランク王ルートヴィヒ2世が死去した。遺領は兄の三子に分割相続されることが決定していたが、シャルル2世はこの機に領土拡大をもくろみ、アーヘン、ケルンと侵攻した。しかし同年10月8日、ルートヴィヒ3世を中心とした三子の連合軍にアンデルナハの戦いで敗北した。
877年、反対勢力の鎮圧のためイタリアに入ったものの、甥の東フランク王カールマンの大軍がアルプスを越え近づいてきたため撤退したが、その帰国の途中、10月6日サヴォワで死去した〔瀬原、p.53。ユダヤ人医師ツェデキアスにより毒を盛られたといわれる。〕〔成瀬他、p.92〕。。後を子のルイ2世(吃音王)が継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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